お寺の手帖

「お寺の手帖」は暮らしの中で役に立つお寺の知識や、宗派や尊像など、
みなさまが興味をもたれるお話を当寺副住職がわかりやすく語ります。

無財の七施

2019年2月1日(金)

更新が滞ってしまい申し訳ありません。

私事ではありますが昨年の四月に息子が誕生し、新米パパとして奮闘中の身でありまして更新する暇がありませんでした。

はい、言い訳です。申し訳ありません。

子供に対する親の愛情というのは、自分が親の立場になって初めて気づく物なのだなと実感しながら日々邁進してますが、この「親の愛情」こそ見返りのない愛情なのでは無いかなと思います。

私も含め基本的にはすぐに見返りを求めてします。

「○○をしてあげた」

なんて言う人が良くいますが、「あげた」といった時点で自分の方が上から物をいってますね。

さらにもう一言足すと

「○○をしてあげたのに」

なんて言ってしまうと、完璧に見返りを求めてますね。

自分の過去を思い返せば良くこの言葉使ってしまっています。

しかし不思議と子供に対してこの言葉は出てこないものです。

「ミルクを作ってあげたのに…」

「オムツを替えてあげたのに…」

世の中のパパさんママさんどうでしょう。話の文脈で言ったことはあっても、この言葉のみで発した方は少ないのでは無いでしょうか。

なぜなら見返りなんて求めていないから。むしろ元気で健やかに育ってほしいと自分の身を削ってでも我が子を案じます。

仏教では布施という言葉があります。

布施とは六波羅蜜(菩薩様が行う6つの修行方法)の一つで施しを行うことを指しますが、この中で「無財の七施」という物があります。

お布施と言えばお金をお寺に払うなんて思っている方も多いと思いますが、そんな金品に限ったものではありません。

たった今からでも実践できる、得を積むことができる修行なんです。

その無財の七施とは

一、眼施(慈眼施)
慈(いつく)しみの眼(まなこ)、優しい目つきですべてに接することである。

二、和顔施(和顔悦色施)(わがんえつしきせ)
いつも和やかに、おだやかな顔つきをもって人に対することである。

三、愛語施(言辞施)
ものやさしい言葉を使うことである。しかし叱るときは厳しく、愛情こもった厳しさが必要である。思いやりのこもった態度と言葉を使うことを言うのである。

四、身施(捨身施)
自分の体で奉仕すること。模範的な行動を、身をもって実践することである。
人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。

五、心施(心慮施)(しんりょせ)
自分以外のものの為に心を配り、心底から、共に喜んであげられる、ともに悲しむことが出来る、他人が受けた心のキズを、自分のキズのいたみとして感じとれるようになることである。

六、壮座施(そうざせ)
わかり易く云えば、座席を譲(ゆず)ることである。疲れていても、電車の中ではよろこんで席を譲ってあげることを言う。さらには、自分のライバルの為にさえも、自分の地位をゆずっても悔いないでいられること等。

七、房舎施(ぼうしゃせ)
雨や風をしのぐ所を与えること。たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブ濡れになりながらも、相手に雨のかからないようにしてやること、思いやりの心を持ってすべての行動をすることである。

の七つです。文字の通り財(金品)の必要としないお布施です。

七つをじっくり見てると子育てこそ無財の七施な気がしませんか?

菩薩様の修行方法なだけあって、見返りはもちろん望みません。見返りを求めた時点でお布施ではなくなってしまいます。

子育ては幸せな大変さです。赤ちゃんは泣くことしかできませんからその泣き声で求めていることを察する。いつも一緒にいるママには分かるんです。本当に頭が下がります。

たまーーに子供と二人でお留守番すると大変さが痛いほど分かります。こんなこと事をいうと万分の1も理解できてないで知ったかぶりしないでなんて怒られそうですが…

幸せと思うことも多くあると思いますが、楽しいことばかりじゃありません。辛いことも悲しいことも時には自分を恨むことのいっぱいあると思います。

途中で嫌になって投げ出したくなることをいっぱいあると思います。そんな時はこの「無財の七施」を思い浮かべて、世の中のパパさんママさんの心のモヤモヤを取り除き、少しでも自分のしている事に間違いは無いと思ってもらえれば幸いです。

とりとめのない内容となってしましましたが、今回は見返りを求めない「無財の七施」のお話でした。